社会の機能。

自殺者を見て社会を恨むエントリを見て。

「社会」に、実体はない。

社会とはなにか、と言うのを考えると、案外みんな適当に「何かをなすりつけるもの」として機能している。


だからと言って、そこに理由を置いておくのは、問題の棚上げにはなるがそれ以上の効果はない。

自殺者の意志が自殺させる、が、その意志が病んでいる。

ただし、人間は今ん所「自由意志」があり、「自殺すら望める」のが前提である。


意志が病んでいる場合には、「治療」しかないが、いわゆるカウンセリングでそこら辺が治療され得るかは保証の限りではない。

何かが人を「救う」なんて有り得ない。

人には意志があるのだから、「勝手に救われるだけ」でしかない。逆に言えば、宗教であろうが社会学であろうが学問であろうが、自殺を止められる訳では全くない。拉致監禁してどこぞで拘束服着せて洗脳するなら可能性があるかも知れないが、社会においては制度的暴力までしか許されない。

死者に簡単に乗り移られるのもどうかと思う。

さて、死んだ人が何をキッカケにして自殺したのかは知らない。元々いる位置が悪い人って場合もあるが、このケースではそれほど人生の選択が少なかったようにも思えない。
それに、更に言えば、立ち位置が悪い事を嘆いても、社会はなにかを救済したりなにかを与えたりする装置ではない。個人にとっては、あくまでも舞台背景にすぎない。


背景としては、「自殺はする意味はない」というが、自分らが勝手に自殺に意味を持たせるのは自由だ。「意味に飢えてるな」とは思うが。
意味は「あるかないかなんて、自分らが決めてる事でしかない」。
何を叫ぼうが、死んだ事実は変わらない。反省してるとかでもなお、こうやって人を自殺させてるのは、その反省が決して自殺を止めはしないからだ。なぜならそれは「自分の反省」であって、自殺する人のそれではないからだ。故に、「死なせたという事を社会の責任にする事で、自分がしなかったことを出来なかった事に転嫁する」。
自罰的であろうが他罰的であろうが本質的なそれは変わらない。「何かの藁人形を必要とする」何かの奴隷というだけだ。


いい加減、その性格が、病んでるって事なんだって理解しようよ。