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「反知性主義」の定義が、日本のインターネットの狭い界隈でどうも一般的とは言い難いものに変容しているという気がする。

俯瞰

Wikipedia英語版を見てみた。

翻訳は、Excite翻訳/Google翻訳
英語翻訳 - エキサイト 翻訳
Google 翻訳


Anti-intellectualism is hostility towards and mistrust of intellect, intellectuals, and intellectual pursuits, usually expressed as the derision of education, philosophy, literature, art, and science, as impractical and contemptible. Alternatively, self-described intellectuals who are alleged to fail to adhere to rigorous standards of scholarship may be described as anti-intellectuals although pseudo-intellectualism is a more commonly, and perhaps more accurately, used description for this phenomenon.

In public discourse, anti-intellectuals are usually perceived and publicly present themselves as champions of the common folk—populists against political elitism and academic elitism—proposing that the educated are a social class detached from the everyday concerns of the majority, and that they dominate political discourse and higher education.

Because "anti-intellectual" can be pejorative, defining specific cases of anti-intellectualism can be troublesome; one can object to specific facets of intellectualism or the application thereof without being dismissive of intellectual pursuits in general. Moreover, allegations of anti-intellectualism can constitute an appeal to authority or an appeal to ridicule that attempts to discredit an opponent rather than specifically addressing his or her arguments.[1]

Anti-intellectualism is a common facet of totalitarian dictatorships to oppress political dissent.[citation needed] Perhaps its most extreme political form was during the 1970s in Cambodia under the rule of Pol Pot and the Khmer Rouge, when people were killed for being academics or even for merely wearing eyeglasses (as it suggested literacy) in the Killing Fields.[2][citation needed]

Anti-intellectualism - Wikipedia, the free encyclopedia

Excite翻訳

知識人不信は、それへの敵意、および非現実的で、下劣な通常教育、哲学、文学、アート、および科学の嘲笑として表現された知性、知識人、および知的な追跡の疑惑である。偽り知能労働がであるけれども、代わりに、奨学金の過酷な標準に付くことに失敗すると言われている自称知識人が反知性主義者と評されうること より一般的 、およびたぶん より正確 この現象のための使われた説明 。

公的な会話には、反知性主義者は通常気づかれて、提案している共通の人々--政治的なエリート主義および学究的なエリート主義に対するポピュリスト--のチャンピオンとして公然と出席し、社会的なクラス教育することは大多数の毎日の懸念からはずし、それらは政治的な会話と高等教育を支配する。

反知性主義者」が軽蔑的であるかもしれないので、知識人不信の定義する具体的なケースは厄介であるかもしれない;それは、そこから、一般に知的な追跡で追い払うようでずに知能労働の具体的な面またはアプリケーションに反対できる。さらに、知識人不信の主張は、権限への訴えまたは訴えを、各自のarguments.[1]に特にアドレスするというよりも、相手を疑うことを試みる嘲笑に構成しているかもしれない

知識人不信が、政治的なdissent.たぶん[必要な引用]を圧迫する全体主義の独裁権の共通の面である その最も過激な政治的なフォームは、ポルポトクメール・ルージュの規則の下のカンボジアの1970年代の間にあった。その時人々は、学者であるように、または単に殺害Fields.[2][必要な引用]においてめがね(リテラシーのそれによる示唆)を身に着けるためにさえ殺された

Google翻訳

反知性主義は非現実的で卑劣として、通常の教育、哲学、文学、芸術、科学の嘲笑のように表現の方の敵意と知性、知識、知的探求の不信感です。疑似知性がより一般的であり、そしておそらくより正確には、この現象の説明を使用しているが別の方法として、奨学金の厳格な基準を遵守するために失敗すると主張している自称知識人は、抗知識として説明することができます。

公共の談話では、抗知識は通常、知覚され、公表のチャンピオンとして自分自身を提示し、共通の政治的エリート主義と反対の民俗は、ポピュリスト学術エリート主義-提案教育を受けたが、大多数の日常の懸念から切り離さ社会階級であることを、彼らが支配していること政治的言説と高等教育

「反知性は "軽蔑することができますので、反知性主義の具体例を定義する面倒なことができます。一つは、一般的に知的な追求を否定することなく、知性やそのアプリケーションの特定のファセットに異議を唱えることができます。また、反知性主義の主張は、権威へのアピールや、特に彼または彼女の引数に対処するのではなく、相手を信用しようと嘲笑へのアピールを構成することができる。[1]

反知性主義は政治的な反対意見を抑圧する全体主義独裁の共通のファセットである。人は学者やであることのために殺されたとき、[要出典]おそらく、その最も極端な政治形態は、ポルポトクメール・ルージュの支配下カンボジアで1970年代にありましたでも単にキリング・フィールドに(それがリテラシー示唆したように)眼鏡を着用しています。[2] [要出典]

拙訳


反知性主義は、知性や知識人および知的探求に対しての、敵意および疑惑であり、通常は、教育や哲学、文学、芸術、科学に対し、非現実的であることや下劣である事を嘲笑するという形で表現される。あるいは、過酷な基準で奨学金付与に失敗したとのたまう自称知識人が、反知性主義として描かれました。おそらくはニセ知性主義と言った方がより普遍的で正確な記述になるでしょうが。
公共の議論では、反知性主義は一般庶民の代表として認められまた表明しています。___政治的エリート主義および学問的エリート主義に対抗するポピュリストとして___また、教育を受けた人々は、大多数の人々が持つ日々の憂いから切り離された社会階層であること、彼らが政治の議論や高等教育を支配していることを、問題としています。


反知性主義という言葉は軽蔑的であるので、反知性主義の具体的なケースを定義することは厄介であるかもしれません。例えば、その一つとして、一般的な知的探求を否定することなく、知性やの特定の一面や適応の方法に反対するような。そしてまた、反知性主義者による主張は、対立相手の意見を明らかにするのではなくむしろ信用を失わせようとする為に、権威に訴える論証や嘲笑による論証を行うでしょう。


反知性主義は政治的な反対意見を抑圧する全体主義独裁の共通の一面です。おそらく、その最も極端な政治形態は、1970年代ポルポトクメール・ルージュの支配下のカンボジアです。その時、キリングフィールドで人々は学者であるため、あるいは単に眼鏡を身に着けているため(それがリテラシーを示唆した)に殺されました。

オックスフォードの辞書見てみた。

www.oxforddictionaries.com
反知性主義」そのものの単語はなかったのだが、「反知性的」はあった。あったが、うーん、まあ、字面の通りですね。
少なくとも「エリート主義を疑う」みたいな肯定的意味は出てこない。

何故か?

端的に言うと、英語でも日本語と同様に「Anti-」という字面に影響されるが故に、こちらの方が一般的になると思われる。
Wikipedia英語版にも、当然ながら「反エリート主義」の話も出て来るのだが、日本語のWikipediaは本当に酷い出来になっている。ちなみに、「本来は」などという言葉は出てこない。
単語の成立そのものを考えても、「反エリート主義」なら分かるが。

ちなみに。

Wikipedia英語版の記述を見てで恐縮だが、1960sの本で既に教育での反知性主義という所でどこぞの人が「本来ではない」と考えるような形での反知性主義というのが唱えられているようだ。


ま、大体予想通りであったのだが、やはり残念なのは、そこら辺調べもしなかった、色々な人達である。