読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

変な批評が、多分文化評論を不毛化してしまった。

俯瞰

あずまんとか宮台の功罪でもあるんだけど。


社会の文脈を読み取る上で、例えばメディアに頼るとか仕方のない事ではあるのだけど、例えば、戦後の第二次世界大戦史ニセみたいなのが、社会風俗の面で言えば、愚にもつかないシロモノが沢山出来上がっている、というのに似ているかもしれない。


豊富なバリアント、を生む土壌は、贋物やデマも含む珍妙なものとなり、やがてその価値を失わせる。
年代と土地、時間と空間による断絶を乗り越える為の論説は、本来膨大なスケールの情報を元に生み出されるものなのだが、ここ数年というか現時点では、多くの論説は、とある一事象に示唆される何かを読み取り物語を紡ぐ事にかまけて、なんていうかな、クソみたいな預言者みたいなのばかり生み出している。
古市とか、「当たるも八卦当たらぬも八卦」のいい事例になってしまってる。当たろうが当たるまいがコメンテーターとして金を得る、それが正義みたいになってる。


こんな事いうとアレだけど、あずまんとか宮台とかそれほど社会に影響を与えない、小物であるし、それはそれで本人たちがちゃんと認識してんだと思うんだけど、古市は若干勘違いしている風な気もするけど、それ以上に勘違いしたフォロワーが、
「居酒屋談義で飯が食える」
とか思っちゃったのがもうアレで。


いやさ、社会現象の一つを取ってお話作るのはそりゃ出来るけど、高く買うにはちゃんとしたブランディングが必要だし、古市は「教員未満」「賢そうな」「若い人」というブランディングだし、それ「でしかない」。
匿名掲示板になると途端に力を失う論説しか出来ないんですよ。
あずまんとか宮台でも、肩書きがなければ、クソかったるい小難しい話なんか大衆は聞かない。理解させるように優しく説明が出来る訳じゃなく(またそういうものでもないんだけど)、向い合って座ってる司会のオッサンとかもほぼ脳みその中に理屈はなく、「理屈っぽい」だけでウケてる所が多分にある。
で、それをブログでやってどうにかなると思っているバカが増えてるんだけど、「ドサ回りの演説家に金をやって謳わせる」程度にしかならんよ、ブログからでは。よっぽど謳うのがうまけりゃ金にはなるが、そうじゃない。たいしたバリエーションもない、オンナジ事を繰り返す、それでメシクウのはちょっと無理だよね。


それと、この手の評論の最悪な所は、「たわごとでしかないのにデマ的に流れる事がある」って事で、当事者にすればホント迷惑なだけだよね。
所詮は居酒屋談義だって事は、念押しした方がいいと思うんだけどねえ。