「相手の心を試しているうちは、その人を愛せないよ。 - シロクマの屑籠」を見て。
ちなみに、イメージしたのは、
(引用:http://mahiruzikkyou.seesaa.net/article/237901437.html)
人の心を試してはいけないのはなぜか?
その人を深く愛せなくなってしまうから、と私なら答えます。
まあ、逆に言えば、愛なんていらない、自分しか好きじゃない、自分ガー自分ガーという自己執着の化身のような人なら、人の心を試しまくったって悪くないのかもしれません。演技や嘘が途方もなく上手で、絶対にバレないように恋人の携帯電話を覗き込めるような人の場合、そういうことをやりながらでも相手からの愛情や信用を得られるかもしれませんよ。でも、仮にそういうことが可能だとしても、愛せないがゆえに届かない視点・愛せないがゆえに見えない境地というのは依然として残るでしょう。
今日日は、自己執着に基づいて合理性を計算し、その方程式越しに娑婆世界を眺める人が多いので、その見えない境地、の部分がどんどん失われていっているような気がしますが、それは本当は、とても悲しくて寂しいことなんじゃないかなと私は思っています。
相手の心を試しているうちは、その人を愛せないよ。 - シロクマの屑籠![]()
「その人を深く愛せなくなってしまう」ということも、「己の中で見つけた」またひとつの「我執」であって。
その理由を考えてしまうことが、既に「合理性の檻」の中なんですよと。
ぶっちゃけ、主の奥方に意見を聞きたい所です。