システムが滅びる時。

d.hatena.ne.jp
半分ネタで半分マジです。

1.システムの最初の頃

グダグダになりながらも、要件定義書・設計書・ソースコード等が揃い、またその文書を作った人がいて、システムの概要(正しいあり方)を聞く事が出来るステージ。

それが行なわれるとされる釈迦の入滅(肉体死)後500年又は1000年間の時期のことで、仏法の儀式が改まらず成仏する人がいる時期をいう。 解脱堅固(げだつけんご)といい、仏法によって証りを得て誤りのない時代、 次の五百年を禅定堅固(ぜんじょうけんご)といって、 禅定(心を一点に定めて思惟すること)が盛んに行われて証りを得る時代

正法 - Wikipedia

2.システムの途中の頃

システム改修による設計の変更などだ発生し、またプロジェクトを率いたメンバーが抜け、文書はあるし作業者もまだいるが、システムの正しいあり方の像が失われ、システム改修が仕様変更なのか障害なのかの切り分けだけが粛々と行われ、徐々に「このシステムは何をするシステムなのか」が分からなくなっていく。

像法の時代には仏法と修行者は存在するが、それらの結果としての証が滅するため、悟りを開く者は存在しないとされる。

民衆の仏法に対する素養(機根)は正法時代より劣るが、仏法を盛んに修行する姿は正法寺代に似ており、形式化されて仏法が伝えられ利益をもたらす時代とする。『大集月蔵経』などでは、読誦多聞堅固・多造塔寺堅固の二つの五百年であるとされている。読誦多聞堅固(どくじゅたもんけんご)とは、経文の読誦や教義の研究論議が盛んに行われて利益のある時代、次の五百年を多造塔寺堅固(たぞうとうじけんご)といって、塔や寺が盛んに建造されて利益のある時代とする。

像法 - Wikipedia

3.システムの末期の頃

文書は存在するが改版がおざなりになり、誰もチェック出来る人がいなくなる。
システムは動いているが、ソースコード自体を解読出来る人もいなくなる。

末法というのは、仏の在世から遠く隔たったため、教法が次第に微細・瑣末になり、僧侶が戒律を修めず、争いばかりを起こして邪見がはびこり、釈迦の仏教がその効力をなくしてしまう時期とされる。

末法 - Wikipedia