表立った宗教的な何かと裏の宗教的な何か

何か変だなあと思ったら・・・・・・ - Celaeno Fragments」の続きにはなるんですけど。

増田の、「やたら宗教の実装を書いている所」以外は、まあなんてーか別に「キリスト的なー」ということに違和感はなくなるんですよね。
例えば、キリスト教の特徴を、「禁欲的」「原理的」なんかに置き換えると、そんなには違和感なくなるという。

ただ、これって、「ある時代の特定の空気」を、無理に何かの概念に代表させるような所があって、
「それが本当に宗教観によるものなのか」という所に至ると案外難しいんじゃないかと思うわけです。
時代、時間軸というものは、いろんな、「相関はあるけど実際に因果にはなってないもの」を、相関で結びつけちゃう所があって。

資本主義が発展していった当時、同時に近代化していった訳ですが、資本主義の発展をどこまでその精神性に求めればいいのかというのは疑問を抱いています。
社会道徳みたいなのが、社会の隆盛に影響があった、というのは、一面あると思うのですが、それ以上に、例えば生産技術の工場や、(都市)人口の増減、というのにもかかってくるんじゃないかと思うわけです。
また、社会道徳も、そういった社会環境に強く依存する訳で。
そして、対抗意識として、別道徳の存在があったりとか。
これらをひっくるめて、キリスト教的と言える気が流石にしないです。

まあ、例えば、現代社会は、「努力する奴は飯が食えるが努力しない奴は飯が食えない」みたいな道徳観があると思うんですけど、これって、天候や土地に大きく左右された過去の農業だとそんなに強くはない。けど、逆に言えば、「誰でもある一定の労力で労働できるようになった」から、努力を道徳観に引き入れた、とも言えたり。
そういう、グッチャグチャな相互作用がある社会で、果たして「同じようなパターン」ってのがあるのかどうか。

社会の発展とかではよく経済状況が引き合いに出されるので、経済とかも考えはするのですが、比較優位とか出てきたらナカナカ難しいんじゃないですかね、「これ」と決めるのは。
まあ、定性的な話よりも多分定量化した何かを参考にして考えるのがいいんだろうなあ。でも面倒臭いなあ。