何か変だなあと思ったら・・・・・・

要旨:ググると吉。

http://anond.hatelabo.jp/20130516170559
「啓典宗教における神の絶対性について」はヤバい - 長椅子と本棚2
を見て。

ユダヤ教ならびにその影響を受けた宗教(キリスト教イスラム教)を啓典宗教と言います。

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「啓典宗教」? いきなり怪しい。この言葉は使わないほうが良いと思います。理由の第一は、これがイスラム教の術語で、あまりニュートラルな言葉ではないということです。「啓典」という言葉は、「キターブ」の訳語として用いられ、旧約聖書福音書コーラン等を具体的に指しています。(参考:キターブ - Yahoo!百科事典)。諸宗教にニュートラルに使うこの増田の用法なら、なぜかイスラム教の立場に立ってしまう「啓典宗教」ではなく、「啓示宗教」の方がよいのではないでしょうか。

「啓典」という言葉を使うことのデメリットはもうひとつあります。それは、「聖典」や「教典」との区別が曖昧になってしまうことです。ここでは「啓典」という言葉は一神教と結びつけるために用いられています。しかし、「啓示」としないことで「典」を強調しているというふうに理解されてしまうと、一神教以外の聖典を持つ宗教、たとえば仏教なども連想されてしまいます。

「啓典宗教における神の絶対性について」はヤバい - 長椅子と本棚2

啓典宗教の特徴は、神が唯一絶対のものであると規定しているところにあります。

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違います。くどいようですが「啓典」はイスラム教の言葉ですから、「啓典宗教の特徴」と説き起こされると、アッラーの啓示を伝えてた聖典を持っていることが共通の特徴となります。また、「啓示」で読み替えても、「啓示」という言葉は、「人間の自然的本性に基づいて宗教的神秘ないし神を認識しうると主張する自然宗教、理性宗教と対比」されて用いられるものです(参考:啓示 - Yahoo!百科事典)。つまり、「啓示」ということと、一神教ということに本質的な結びつきがあるわけではないのです。増田の論旨であれば、啓典や啓示というところから書き起こすのではなく、一神教というところから書き起こすべきだったのではないでしょうか。

「啓典宗教における神の絶対性について」はヤバい - 長椅子と本棚2

特段、個々の訂正等はしませんが、「ユダヤ教」「キリスト教」「イスラム教」の、同根の宗教をまとめて識別する為の言葉として何を用いるべきか、というのは、個人的な意見としては、まあわかれば良いとは思います。
wikipedia:アブラハムの宗教にちょろっと記載されてますが、この「総称」において、いい着地点ってあんまり無いです。
まあ、歴史的に見たら、コーランで「啓典の民」としてまとめられてるので、先取権的に認めてもいいんじゃないかな、と思う所もありますし。

絶対と言うのはまず第一に宇宙論的存在証明における価値や原因の起点と言う意味を持ちます。

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違います。少なくとも、これが「絶対」という言葉の第一義ではありません。また、「宇宙論的存在証明」という言葉の使い方が非常に曖昧でミスリーディングです。さらに、「価値や原因の起点」という表現は意味不明です。「起点」という言葉は運動にふさわしいのであって、「価値」にはふさわしくありません。では「原因」の方はどうかと言うと、それを言うなら「因果系列の起点」でしょう。「原因」は因果の起点のことですから、「原因の起点」では意味を成しません。この箇所で言いたいことを言うだけなら、啓典どころか「唯一絶対の神」から出発する必要すらなく、「価値秩序の頂点にあって善悪を規定し、また因果系列を遡った第一の起点にあるものは、たとえばキリスト教においては「神」と呼ばれる」くらい書いておけばよかったのではないかと思います。

http://d.hatena.ne.jp/dergeist/20130516/1368723788

ええと、増田が分かりにくいのは確かにその通りなんですが、言い換えたものも微妙と思います。
宇宙論的存在証明」は、その手の人には、「中世哲学での、神の存在証明」として通じると思います。「絶対」は、現在の日本語での「絶対」ではなく、absoluteの語源ぐらいの意味で使われているかなあと思いますよ。

個人的には、まあ、森羅万象を司る超自然的存在でかつ唯一神教の場合には一つの神の存在のみ認められる、ぐらいでしょうか。そもそも、唯一神教って、ほとんどアブラハムの宗教と同一なので、あんまりねえ。
これらの「神の定義」は、文化背景としてのキリスト教の定義とはやはりずれるかなと思います。予定説は、キリスト教内でも対立の種になって来たものですし、これをキリスト教の根源であるとかってのも、ちょっとしんどいなあと。

権力の由来の話も、増田のはちょっと理屈こねすぎて変になってると思います。権威付けは、別のイデオロギーとの対立の際に必要となってきて、ぺって貼り付けられるもの、ぐらいの方が一般的かなと思います。

増田テキストは小室直樹辺りの受け売りっぽい匂いがするんですけど(キーワードググるとよく引っかかる)、真面目に批判するには能力的に無理というか、まあ、ウェーバー的な何かっぽいなあとは思うのですけど、言葉の飛躍があるので読んでいるだけで疲れました。