噂話の見方。

ネットのデマって、スゴいね。 - 柳美里の今日のできごと」を見て。
デマの拡散は、主に悪評に対して働くもので、「悪評千里を走る」。


「デマ」が好きだ。
そこに透けて見える、「人間臭いもの」が、人間をよく分からないボクに、人間を教えてくれる。

関係ない事例が、「人」を軸として元となる出来事と遅延で伝播する。

今回では、柳美里が軸になって、「『創』が原稿料未払いをやってる」という話が伝播した。その後に、「柳美里が『金持ってる』事」「柳美里が豪華な生活を送ってる事」が伝播した。


人間のココロには、バランスを取る指向がある。作用反作用、という形の直接的な話ではなく、接触のない話をバランスさせて、「関係があったのだ」とする。
天網が漏らさないと思われるのは、そういうココロの働きが、そう見せてる。
デマは例えば訴訟なら、訴えられる側・訴える側、どちらか"弱そうな"方に発生しやすい。また、これがある程度全世界的な傾向である事は論をまたない。
弱い、というのも、人間の中で受け取られる「その場限りの」感覚であって、実際に強者と呼べるか弱者と呼べるか、ではない。


例えば、うわさ話の元ネタになった人達の話はどれもはてな村人には馴染みの方々なので、マトモに受け取る事はあまりない。
のだが。

ある種の処理が働く。

自称「分析」とか流行ってからもう十年以上は経っているが(JOJOの主人公の性格を精神医学で分析、みたいなのを見かけたのは大学ぐらいだったかと思う)、本当の意味での「分析」とは違い、「マンガのキャラクターが人間であるという『錯覚』」を敢えてするのは、精神医学をネタにした「創作」である。
評論は、分析と創作の両方の性質を持つ可能性があるが、基本的に世の中に出て行くのは創作色が強い。
分析とは身も蓋もない話をし、決して発展していくものではない。分析されたからと言ってアクションには結びつかない。多くの場合には噂や夢の否定に繋がる。


読み手と書き手は常に不連続である。ほぼほぼ伝言ゲームなのだが、その間に情報は根拠より切り離され、公共空間にポッカリ浮かんだ都市伝説となる。
そこでは、「分析」か「作話」が区別が付かないようになっている。
猫々先生とかが絡んでたら「お察し下さい」の話題であると、はてなプロレスの教科書(ここでいうプロレスの教科書というのは江頭似のレスラーがやってるネタの事である)の最初に書かれてそうなもんだが。


公共空間と言ったが、理想の公共圏とかではなく、情報バラエティ横断的に広がる、ハイパーリンクはむしろ極限まで減らされた、ある種のパブリックドメイン的な振る舞いをしている(あくまで利用する側は、だけど)。
キチンと説明書も整えられたライブラリではなく、即流用するためにライブラリ的に振る舞うもの、と言えばいいんだろうか。
当然ながら、そんなもん整理する暇人はいないけど、高度に発達した検索技術・ユーザフレンドリなUI(余計な情報は表示しない)によってゴミ溜めをライブラリ化してる。

余談。

インターネットは、昔以上にがらんどうで、誰もチェックしないレビューしないまま、情報は増えているんだけど、まとめサイトやキュレーションサイトやバイラルメディアという検索エンジンのフロントエンドが未だに人力で動いてる状況だ。
学習サイトとかインターネットの拡大枠に比べても全然進まない。
情報を理解しない為にみんなインターネットを使う。これが本当の意味での、Web2.0なんだよね。