ちょっと混乱させてみよう。

「検証も反証もできない命題は科学の対象外」とする「ポパーの反証主義」について - しいたげられたしいたけ

決定論とかは、科学の領域から遠くなっている。

ラプラスの悪魔とか、気体分子運動論辺りで限界に達したもので、思考実験的にもハイゼンベルク不確定性原理くらいまで、という事にはなるが、気体分子くらいを考えてももはやランダム、カオスな領域なので、決定論的に考える事は出来ず、流体力学の力を借りる。熱力学第二法則は原理として使われ予測には有用である。
この辺りは、量子論的なゆらぎのサイズでゆらぐのではないのよ。
例えば、分子レベルで観察する事は全く不可能ではないかも知れないが、ブラウン運動のような花粉の中身みたいな小さくて細かな粒子が沢山動くさまをつぶさに観察する事が難しい。
自由意志等ありそうもない物質においてすら、素朴な決定論的な何かを用いるのは難しく、流体力学等を駆使しても、我々はかなり粗い前提をおいて使っている。


人間の予測不能については。
金融工学において、このランダム性も取り込んだ上で理論化されている話はあるのだが、LTCMは破綻し、ナッシュ均衡の中でしかまだモデル化されていない。
株式売買のルールは明らかになっているのだが、気候や事件のイベントが一体どれくらい影響を及ぼすかは予測不能である。
バブル崩壊も含めたモデル化は無理だろう。現実の現象を見て裏に働く力を洞察するまでだ。
そこには、人間、社会という未だに複雑怪奇なものがある。要因がありすぎて厄介だ。
バブル崩壊等を予測出来れば良いのだけど、人間がそこまで合理的に動かない。平時は幾らか経済学に従うのだけど、若干自己成就的なものもある。

反証主義の瑕疵。

論理実証主義の批判的解消である反証主義は、扱える課題を現実の科学に近いものにした、とは思うが、演繹的に立証されない立場、というものを論理実証主義から引き継ぐ形にはなっている。
何だかややこしい話だが、反証可能性が正しいというそのものは反証可能性がない。
まあ、そこらへんは、伊勢田先生が書いていると思うが。
他、クワインホーリズムという見方からの批判、クーンからの批判もある。これらはどれも「科学理論は絶対的ではなく相対的である」という立場となり、ニセ科学批判を行う人にはあまり認識されない話となる。
ただ、相対的と言っても別の合理的選択があるというだけで、今までの科学を否定している訳ではなくむしろ反証主義の現実との不整合の指摘だと思った方がいい。
同じ事をやってる研究の選択に関しては、先行かつビッグネームな論文誌への投稿等現実がある。
これが現実の新研究に対しても発生しており、ノーベル賞を取ったような研究は、結構論文誌に採択蹴られてたりする。