シロクマセンセは強者でも弱者でもなく。

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一応、タイトルのような事は昔から感じているけども。

シロクマセンセは業の深い「自己実現欲求」に囚われている。

一応念の為。
シロクマセンセが「未熟とか成熟とか区別している」話は、マズローの理論から遠く離れてというか、「承認欲求だけ取り立てて切り出している謎の理論に変容している」。マズローは、社会的欲求と承認欲求を分けてるんだけど、シロクマセンセの言う承認欲求は、社会的欲求の方の定義になっている。
大抵はそちらの用語を使った方がよりよく状況を説明出来る。


んだが、シロクマセンセの目線はちと歪んでいる。「世の中をロールモデルでうめつくしたい」というような欲、あるいは「弱者に対する杖としてのロールモデル」というような、ありがた迷惑な、社会的欲求の変形だったりする。いわゆる所属欲の延長線上にあり、「自分はそれで救われるのだから周りもそれで救われなければならない」というような裏テーマが存在する。

Webが人を救わなくてもいい、というか、どんな世界でも、「ロールモデル」や「社会的成功」とかが、救いになるって事はないんだよねえ。

絶望は希望の裏返し、とは言うんだけどもさ。


他人と納得の出来る「救われる方法」なんて、それこそ「あなたが受け入れればそうかもしれないが、あなたが受け入れなければそうはならない」って所でしかない。
あとねえ、「類型は必ず例外を齎すものだし」、「社会的成功」でも定義次第で「精神科医であるのにもかかわらず一向に満たされてる感はないよね」とかそんなもんだよ。

救いに縛られる。

まあ、「自分が救われるのは、それを救いと自分で定義すればなー」という話であるし、「救われるという事が状態を示すものではない為に、救いの継続の為に救いに縛られる」という話でもある。


別にPVが救いになろうが、ミニマリスト的なジブンテツガクが救いになろうがいいんだけどさ、それ延々と続けれるの?この変容する時代で?って所でもあんだよなあ。
PVはホントに十年二十年でだいぶ意味変わっちゃったしね。昔のカウンターがひとつ増える度に喜んでたのが、今や100PVとか連続的な数値に変容していって、多分飽くか(飽くまでやれるのはそれはそれで大変な労力でもあるけど)絶望するかだよねえ。


ココらへん、救われる何かを安いものにしてみるのもひとつの戦略ではあるかもしれないけど、「書いているだけで救われる」ってのは、「とりあえずみんなが救われるという前提で問題ないかな?」程度に救いを廉価販売する事でもある。安い救いで満足していけるのかってのは、そりゃかなり難しいんじゃないかな。

救われるとか救うとか、そんな事に大して思い入れる必要もないんじゃないかなあ。

そんなものはその都度適当に切り替えればいいし、暫時的でいいんだよ。
むしろ、「今一時」に集中出来ないってのは、それ損だと思うよ。


Webにあるのはどこまでもタダのテキストだし、救われるか救われないかは、自分らてその時々で適当にしたらいい。


そもそも、承認欲求にとらわれても破滅するし、とらわれてなくてもなんにもならんし、であれば、「承認欲求って破滅とかそういうのにあんま関係ないよね」でいいと思うよ。


ただ、多くの人はわりとテンプレ的に堕ちてく事が多い。
「己を表現する」という事は、表現する己と他人からの印象の己、そのすり合わせをするためにまたWebにネタを書く己、どこへ行っても自己を他人に理解させようとするのは、近づいたようで遠ざかるというような、永遠のすり合わせを繰り返す事が多くって、そのうちに表現する己が不思議とすり減るからねえ。テンプレ化するともいうが。
で、そのテンプレ化した己が「ジブンではないというような感覚にとらわれる」。まあ、ジブンを正確に表現しようとしたら、結婚式のムービーじゃないけど、ダラダラした人生振り返りみたいなのを、延々と放映するぐらいしか本来は手がない。
完璧なる自己実現というのは、まあ無理なもんだし、そして、同じくらい、ちょうどいいバランスでやるというのも、いつも天秤の左右を確認しながらバランスとらんと無理でもあるんだけどね。


いい年した大人も転ぶときゃ転ぶし、ただ、その時転んだ事を、成長出来る事であるとか誰かに慰められるとかでその時々でなんとかやってるというだけの事で。

余談:そもそも、「救う事の出来るような人ってのがWebにはいない」

かけそばかけそば。


まあ、そんな綺麗な人はそんなにいるもんではないし、綺麗なら更に近づきがたいぐらい汚れてるのが罪人って所もあるしねえ。