「アビガンが今になっても承認下りない根本理由」を見て。

アビガンが今になっても承認下りない根本理由 | 新型コロナ、長期戦の混沌 | 東洋経済オンライン | 経済ニュースの新基準

記事は荒いが。

少し補足。

二重盲検は無理ではなかったが・・・・・・

効果が著しい場合には治療薬であろうがバレる。
あと、プラセボと比較するだけでなく、適宜併用薬とかも使えるようにしておけばそれなりに安全性も保たれるとは思う。
ただ、「薬の有効性」を見るのには、意外と「的確な投与方法」は必要であり、何ミリを何日間投与とかその確立を出来てなかった中で治験終えて出してしまった感はある。


逆に言うが、著効な場合は通ってたとは思う。

治験のフェーズについてがちょっと違う。

参考は以下PDF。国が変わってもこのあたりはあんまり変わらない。
https://www.pmda.go.jp/files/000156372.pdf


なお、臨床試験によっては、複数フェーズを同時に行う事がある。「Phase II/III」とか結構ザラ。
理由には「イチイチ被験者集めるのが大変」「一つにまとめた方が実施は楽」(データ整理が大変だけど)などがある。


通常はフェーズIIIで有効性で疑問視されないようにはするのだが、如何せん新型コロナウィルス感染症の危険度から治験は進められてきたというのがある。
そのせいで、有効性を判断するにはちょっと難しいというので保留されているところがある。
フェーズIIは二重盲検を行うが、キーオープンしてフェーズIIIはオープンでやる事結構多い。

倫理的にどうかというよりは、スキームの話。

二重盲検だろうが、患者の健康を考えるのは当たり前なのだが、対象患者が肺炎を起こした患者という事であれば、いくら盲検下していても、「何を投与したか」の情報を元に治療する(併用薬・併用療法)事が可能であるし、割付もキーオープンする。
ただ、必要あらば24時間いつでもキーオープンという仕掛けは無論治験でもあるのだが、それが頻発するとなると、やはり難しくなる。

PMDAへの相談は、結局のところ、審査する医師先生方への問い合わせになるが・・・・・・

やはり、形式的にどうのというよりも、実際データ集めてみてイマイチパッとしない結果になったという事になるだろう。現在進行中の感染症に対して有効性が見られる・見られないというのは、案外難しい問題である。

本論:新型コロナウィルス感染症をどう捉えるか。

大きな医学的な問題として、いくつかある。

コロナウィルス感染症自体の研究があまり進んでいない
その結果、既存のコロナウィルス感染症に比べて、新型コロナウィルス感染症がどの位「危険」か、評価が難しい。
公衆衛生学が進んでいない
特に、飛沫で感染する病についての経験的知識レベルしかない。空気感染のモデル化は早急な課題だとは思う。シミュレーション、と言われた場合に、空気中のウィルス粒子のシミュレーションか、人間が移動する際にどのように感染を広げていくかのシミュレーションか、とわりと一般人はそう考えると思うが(シミュレーションというものに触れた事のある人は)、今のSIRモデルとかは原理上極めて限定的な有り得ないシチュエーションを用いている。まあ、現在の日本の感染動向では上手く当てはまらない。
リスク評価が医学者でバラバラ
過去、五類の感染症にすべきという意見が発生したが、既知のインフルエンザ感染症と死亡率が同程度のオーダーだという事については、そもそも情報の洗い出しが二類だからこそ感染者数等が嵩を増しているという状況であり、数値比較にはあまりにも前提条件がそぐわない。しばしば私が持ち出している「甲状腺検査」のようなケースがあるのだから、もう少し検討されるべきだろう。
あらゆる分類わけが標準化されているわけではない
PCR検査の陽性数等は、そもそもスクリーニング検査として用いられていなかったPCR検査について、装置のブレも含めてどのくらい装置間で違いがあるのかとかが分かっているわけではない。未曾有の事態については、周りの部分についてもかなり未曾有の部分があるので注意が必要。PCR検査については、現在標準的にウィルス遺伝子のどのあたりを読み取る、という事が標準化されてはいるが、当然ながらそれをすり抜ける変異種は生き残りやすくなるし、いわゆる淘汰圧というものが働くので結構厄介。


過激な意見を出す人もいるのだが。
例えば。
VRoųê
正直、私はここで書かれている意見に賛成するものではない。しかし、議論としては行うべきものはあるという認識である。
ただ、専門家について、「あなたもメディア使って発信している限り、コミュニケーションの問題を抱えており、人への言い方とかは気をつけろ」とは思っている。
ただの一個人であろうが、政治的視点から逃れているわけではない。メディア・コミュニケーションをないがしろにしていいわけではない。年寄りや有識者として振る舞う際に、ひねた隠者ごっこをしても仕方がない。
これは自分が暮らしている社会全体で言える事だが、社会は複雑性の縮減という機能を担っており、「どこかで誰かがやってくれる」のを期待するのはわかる。わかるが、「どこでもない誰かがやらないといけない仕事を誰かがなんとか動かしている」状況なのも考えてた方がいい。


ぶっちゃけ、今の現状、「医師と秘書」というような旧来の関係性では、全然能率的に物事を進められないという事が露呈しているのではないかと思う。