宮崎勉事件から以降、マスコミを賑わすための犯罪というのがジャンルとして出来上がった感はある。宮崎勤事件自体はそうではないけども。
「こんな証拠がありました!」とか「犯人像の推測」なんかで、妙に犯人に心情シンクロする人も多くなった。まあ、そういう風にストーリーを作り理解させるというのがマスコミの仕事ではあるけども、どこかで「これ我々の想像です」とか「犯人の本当の気持ちとかには届いてないと思います」とか但し書きは必要だと思う。
あと、プロファイリングと犯罪統計が結び付けられやすいんだけど、説明するのもダルイのでやめるが、結構な誤解が生じているように思う。シュビラシステムなんかのもっと手前の段階で、犯罪のカテゴリ化もまだまだ原始的ですよと。特に容疑者心理に基づくようなものは、警察の作文も多いし、そもそも心理学で性格なんかがまだ核すら確からしくないというか、研究者側の都合で成立している部分が大きい。
なお、「コンプライアンス違反」という表現の仕方がちょっと気になる。
第一に。
多分彼らは、「一枚の写真にそれっぽく重ねる際に、そこにあったものを一番上に置くような事をした」のであり、結局なところ「一枚の絵で状況が分るようなもんはない」だけだと思っている。犯行現場ではない、触らないような状況では当然ない。いわゆる「切り抜き」であり、メディアがどうしたって回避できない宿命のようなものの延長戦である。
つまるところ「一枚の絵で印象付けられてしまう脳の仕組みやメディアの誘導の作られ方」の問題であると思っている。
というのも、当時小学生だったか中学生だったかぐらいに報道を見ているのだが、その後に来る「オタクバッシングで言われるような事」の印象を全く宮崎勤に感じていないのだ。ビデオが並ぶ部屋とかも見ているし、他の雑誌の中にちょっとある劇画調エロ漫画があからさまに違和感しかない(誰かがやってんだろこれ)のを記憶している。それ以外の写真もあったし、メディアでのそういう情報を元に、冷静に考えて「これオタクって言ってもロリコンではないのでは」という風に言った人もちゃんといた。
第二に。
印象が変わる切り出し方、という事について、多分外部の我々として求めるものが法律違反ではないにしろコンプライアンス違反だ、というには、ルール的なものがない。印象操作された、というところの「これはいい」「これはダメ」の基準があまりにも難しい。
医薬であれば効用や効能をイメージさせるような街頭アンケートとかはダメだが、そもそも広告らしい広告を医師法薬機法で一律禁止されているからであり、公平さがあるルールは無理ではないかと思う。
つまるところ「ほどよい印象操作とは何か」というところの決め事が、マジで難しい。こういうところ、「オタクの人」と「そうでない人」では違いが分からないみたいなところもあって、難しい。てかまあ、この辺り、誰も議論してないように思える。
おまけであるが。
宮崎勤というアイコン、類型等は、メディアが悪用した。
ただ、オタクの「気持ち悪さ」というところでは、一番使ったのは宅八郎ではないかと思う。宅八郎がTVで作ったオタクのイメージは、よくよく見るとキメラのようなもんであり、二次元とかはもうちょいあとの言い方なのだが、なんで森高千里なのかとか、美少女とかとはカテゴリ違いだよとか、マジックハンドは映画的表現だとか、なんだろうなあ。そもそもコンテンツをほぼ語らない、ガワだけ作ったオタクだったわけだし。
全部が全部悪いとは言わん。タイミングよね、というところもある。
当時の殺人事件、いろいろあったし、世間がそういう事件に対して恐怖を感じたというのもある。多分こういうので民間人による虐殺とかが起こるんだろうと思うが、果たしてこういう犯罪報道とかが、社会の役に立ってるんだろうかとは疑問を感じはする。感じはするが、結局のところエンタメとして成立してんだろうなと考えはする。
多分時代時代で、何等かの集団を贄にして、人間の社会は平安を保つんだろうなと。
そう考えると、陰謀論者の陰謀組織を想定している方が、社会は楽かもしれん。存在しない集団が悪者って事で。
うんまあ、グノーシス的世界観よね。
[グノーシス主義 - Wikipedia