いつの間にか二次創作という話に落ち込んでるが、元の話はそういう事ではないので。

マジョリティが二次創作や脳内補完に親しんでいる社会 - シロクマの屑籠
「二次創作」増加は、受け手の”変化”でなく「元からあった志向が、技術進歩で実現可能になった」んじゃないかな?(仮説) - INVISIBLE D. ーQUIET & COLORFUL PLACE-
東浩紀氏「二次創作文化は限界。『子どもの運動会が一番楽しい』という世界だ」 - INVISIBLE D. ーQUIET & COLORFUL PLACE-
を見て。


元の話から大幅にずれてるなあと思う。

 さて、KADOKAWAでは、「著者」と編集者が、KADOKAWAが内在したある種の物語消費論的なシステムの中で「メディアミックス」の名の元にコンテンツをこれまで制作してきたが、そこに「ユーザー」のコンテンツを吸い上げる「ニコ動」が一体化した時、そこに成立するのは、より大きなプロもアマも包摂する巨大なコンテンツの生成システムである。なるほど、これまでも創作は見えない制度によって呪縛されてきた。そしてその呪縛の所在を示すのが批評であり、格闘するのが文学でもあった。しかしこの不可視の制度が外部化し、ユーザーサービスとしての装いを施すことで、ユーザーの些細な水準での徹底した快適さが提供され、その環境の中で人は消費行為として創造性を「快適に」発露することになる。

 恐らくそう記した時、誰でも快適に、しかも最終的に合理的に二次創作ができ、それに対する相応の対価も得られるシステムのどこが悪いのか、と思うだろう。KADOKAWA・DWANGOがもたらしてくれるかもしれない、すぐそこの未来は、そういう「快適」に想像力が管理された未来である。

 この、「システムに創作させられていながら、しかしそれが少しも不快でない環境」は、きっと誰もが望んだ世界ではあるのだろう。その制度に順応している限り、そこでは作者という特権的な存在は死に、誰もが「自由」に「平等」に創作ができる。この、KADOKAWA・DWANGOがもたらしてくれるかもしれないユートピアは「企業によって管理されたポストモダン」の誕生だと言える。吐き気もするはずだ。

 しかし「世界」というコモンズから、その都度、「物語」を立ち上げるという、これまで、誰のものでもなく、誰かに管理されたわけでもないシステムが、誰かのものになり、その誰かに管理される、というのは正しいことなのか。ぼくは正しくないと思うが、そう思う人は多くないだろう。

 それにしても、KADOKAWA・DWANGOがもたらそうとするものが、物語を作者が寡占し得た近代の本当の終わりを意味するのだとしたら、ぼくはポストモダンをよりによって角川に見せられるということになる。

大塚英志緊急寄稿「企業に管理される快適なポストモダンのためのエッセイ」 | 最前線 - フィクション・コミック・Webエンターテイメント

シロクマセンセは、ちょっと誤解している。

 それでも、コンテンツってのは売り手と買い手が存在してはじめて成立するものだから、ニコニコ動画やニコニコ御三家がメジャーになっていくためには、それを支える人間が存在しなければならない。それらの呼びかけに呼応した21世紀の青少年、つまり物語生成システムに惹かれる素地のある青少年がこんなに沢山いたことに、私は驚きを禁じえない。


 1980年代に物語生成システムを売り出しても、ここまで受容されなかっただろう。それこそ、TRPGや同人誌が(盛り上がったとはいえ)オタクの嗜みの水準を超えなかったように、ほんの三十年ほど前まで、青少年の大半は脳内補完や二次創作の作法についていけなかった。
 

 ところが、三十年後の今では、多くの青少年が、そうしたオタク的な物語消費の作法を心得ていて、違和感無く楽しめている。「売れ筋となる作風が変わった」といえばそれまでだが、では、なぜ「売れ筋となる作風は変わった」のか?なぜ、青少年は、作者が作った物語を字面どおりに追いかけるのでなく、作者が作った物語のフレームを自分達の想像力で肉付けして、そうやってできた二次創作的なシミュラークルを消費するようになったのか?


 私などは、そうしたパラダイムシフトの背景に、つい、一種の社会病理のようなものを想像したくなる。

マジョリティが二次創作や脳内補完に親しんでいる社会 - シロクマの屑籠

それは、例えばコミケにいたし、創作という面では、本やコミック、アニメ、音楽、幾らでもいた。
大塚英志が言っているのは、例えば、VOCALOIDの賑わいに、今まで音楽を自分の名前で出していた人たちが吸い寄せられた事を指す。
そして、ニコ動とかVOCALOIDの技術はコンテンツ製作の閾値を下げてはいるが、「供給者」と「消費者」の違いはあって、楽しむ事自体はそれほど特別な事ではなくなってる。それについての補助道具の方が先に進化している。例えばGoogleとか。


うんたらメディア学院だとかもう二十年ぐらい稼働しているし、どう考えても供給者そのものが過剰なのだけど(深夜アニメですら、総監督の名前がやたら覚えのある監督になってるのはなぜだ、名誉職ならいいけどおそらく本当に稼働している、そんな状況でお前ら一生伝説の後塵を拝するだけだぞと思うがまあ余計なお世話なんだろう)。
あと、95年とかこんなに深夜アニメとかなかったし。異様なぐらいに小さい意味での物語システムが使い捨てられてる。
ただ、みんな「あるのは知ってるが」金を落としている訳ではない。


それに、純たる消費者は、一次創作も二次創作も区別はそんなにないよ。
コンテンツを創作するという形での創作という消費の形はあんだけど。