同じ時に生きていたとしても、背景がやっぱ違うんだよなという世代の話。

小谷野敦氏のエントリを見て。
jun-jun1965.hatenablog.com


以下つらつらと駄文。


昨今、そりゃあまり世代間の話を言いすぎてもよくないとは思うのだが、やはり時代が進歩した、考え方や生活の仕方が変わったというのがあって、そのバックグラウンドへの理解なしには、人への理解は進まないと思うのだよね。
無論、我々はどうあるべきか、なんかの論の時には、ある程度理解したとしても蹂躙するような事は必要になるかもしれないが、もはや感性部分はなだめる事も多いわけで、排除するだけではなく、理解の補助線を引くことによって、我々も近付けるかもしれないし、相手もまた近付けるかもしれないという、まあそういう事の話。
無論、バックグラウンドへの理解の重要性は世代とかだけではなく、東京・地方でもそうだし、町の風景もかなり違うし、社会の景気の体験とかも違うし、男女ですら違う。場所でも、職業でも違うだろう。SEでもだいぶ違うし。


daiyoshiwara2024.jp


これ、多分女性の東京芸大の人から見るとちょっと違った意味で見えるだろう。吉原に今働いている人からも違った風に見えるだろう。


bunshun.jp


吉原に勤める現役芸大生、とかってフレーズ、真実かどうかは知らんが、不思議と一定数昔から奨学金返すのに風俗で働くとかは聞くのだ。無論、遊ぶ金欲しさといわれるものもあるだろう。ところが、現代の大学生の多くはサークルにも入らず、何に金がかかるんだろうというと、個人的には乾燥していると思える都会一人暮らし、それに金がかかるんだろうという。
友達と呼べる友達がいない、は結構多いもので、便所飯等と揶揄されるような話を生む孤独の中に、昔なら友達とかでええやろとかの所が娯楽に置き換わっているようなそんな気がする。


話を戻し。
実のところ、私は1976年生まれで、小学校はふつうの所に行ったが、中高とかは私立の中高一貫進学校の出身である。多分小谷野氏と似た学生生活にはなるだろうが、十年くらいは違うわけで、私の小学校と中学校の区切りがちょうど平成くらい、結構なギャップがある。
ヤンキーや暴走族はあまり見当たらなかったが、ヤンキー漫画はブームがあった。カメレオンとか。そう考えると前の世代の感覚がちょっとギャグになるようなところがある。私が大学生でバイトしていたくらいは、夜の時間帯女性はわりと早くに上がってもらい、深夜帯は男だけで回していたようなくらい。
11PMは知らんが、トゥナイトは知っている、アダルトビデオは中学生くらいに始まったというか、でらべっぴんとかもその時代に始まったので、性にまつわるものの思春期での接し方というのが、前の世代と全く違うんだよね。
世代の風も違い、ヤンキーの次に来る積み木崩し、それまでは社会の一部の非行の問題だったのが、家庭内にある問題が社会の問題として注目されるようなギャップがある。
実際、私らの世代では差別問題は、ある種の過去の問題で当時も地域に残ってはいたが、表で語るような差別はかなり解消された世代である。ただ、「どこそこの地域は荒れている」という言われ方はした。
私は小学生に上がる前に、父親が頑張って一軒家を買い、周りが大学の教授であるとかの新興住宅地で育った。父母からすれば地域社会もハイソサエティな雰囲気のある中で、地方公務員でも家が買えるという、ある意味の成長の話ではあるが、厳然と地域内で格差のようなものは残っていた。ただ、新興住宅地ではあるのだ。当たり前ながらそもそも風俗関係の人と住む空間が違う。だからこそ、牧歌的な「職業に貴賎なし」という感覚が作られたのかもしれない。
とは言え、私立に行くと、「その中では普通でない」という感覚はあった。周りを見れば医者の息子弁護士の息子多かった。片親の子もいたのではあるが、文化資本という言葉が思い浮かぶようなところはあった。
実のところ、風俗周りの話に接するのは、大学時代、高校の後輩なんかがデリヘルの店長やってるとかの話が出たり、まあ大学時代には京都の町を散歩したりしてたり、祇園ですよーというところの裏話を聞いたりとかになる。無論、父親の話を聞いたりもしていたので、その前も知らないというわけではない。
そういや卒業後すぐにDX伏見がなくなったとか(伏見会館も卒業後すぐに閉館した)、八千代館も卒業後だが、大学当時でもさびれていた。先斗町に風俗があったのは知っている。こういうとなんだが、ゲーセンとかの近くに、わりとあったんだよ。日本橋もなあ。町の外れにありがち、という都合もあり、わりと近い事が多い印象。
多分、そこなのだ。私はオタク気質という事もあって、電気街にもいってたしゲームもあさってたが、そこの近くで見るお姉さんとかに特に隔世の印象は持ってないし、親からの何かもない。親にオタク趣味を否定されていたがだからこそ親の価値観とか社会の価値観に合わせてない、そういうところで出会った人に関して、多分隣人として無理とかって感じではなく、むしろ自分らが邪魔しているような感覚ではあったから、ある種の怪しい事への許容という事も、そこら辺が背景にあるのかもしれない。
そう、オタク文化というか、いわゆる社会の外側文化が、今や中にも広がっているところを考えると、そういう意味では、風俗の人に対して特に嫌悪感を感じないのは、下の世代では当たり前なのかもしれない。社会というものを隣人や共同体ではなく、メディアから学ぶ方が強くなっているわけであるし、アイドル商売、推し活、好きなものことにお金を費やす感覚、そういうものが消費社会を支えていると考えると、その地続きに、風俗関係も入っては来るのである。
例えばまあ、今の風俗でコスプレとかの風俗があるが、そこの人がコスプレイヤーだったりとかってのは、わりと昔からあった。意外とオタクの女子が風俗やってるケースもあったし、まあ嫁の友人が一人暮らししながらコスプレ喫茶で働いている時に複数人の男性の入れ替わりがあり、まあ話を聞くに、「もうちょっと都合のいい女止めた方がええで」(嫁もそういう感想だったが)というような事はままある。ただまあ善人であることはあまり疑ってない。
ちなみに私の親の世代だと、「都会は生き馬の目を抜く世界」とかかなり人に対して警戒心が高かったのだが、ちょっとそれが揺らいでいるんじゃないのかという気はする。オレオレ詐欺とかまさに善人だからこそ引っかかる詐欺だよなあ、だまされた人の善性は疑いようもないと思うのだが。自分が詐欺に引っかかりにくい性格しているので余計にそう思う。


ここまで私の背景を書いたが、つまり、まあそういうものの寄せ集まりである。
なので、どうしても元エントリの、「しかし今でも、日常的な差別、たとえば隣に住んでいる人が元売春婦だと知ったら、普通の人づきあいは無理だろうというくらいには思っていて」という感覚は共有されない、よく分からないものである。
次に続く、「コロナの時の給付金とかの話になると、まず合法化が先だろう」という感覚も私はないのだが、これは世代というよりは、どちらかというと現状の人とかをベースに見る感じになっていて、「その順序が法律を見ればスマートだろうが、そもそもコロナ給付金とかは特例法で、今みんな生活に困ってるから作られた法律で、排除していいの?」というところが逆に問題だと思うわけであるが。そもそも風俗営業は合法ではあるのだし(営業許可ある)。
「それに私は近世から昭和初年までの人身売買による売春を文藝に取り入れたりするのはもう耐えられないのだが」これもちょっとよく分からないのだが、文藝にはユートピアを描くべきということなのだろうか。それともこの時代は文藝として描くべきではないという事なのだろうか。小谷野氏が小説家なので書く側として書きたくないという話であるのであれば、そういう方向性になるのだろうと思うがさすがにこの辺りは当人以外のものが推し量るのは無理だろう。


「戦後の、借金によるものとか知能が低いとかいう人についてはまた別のとらえ方が必要で、むしろそれを何とかするために一律売春防止法で禁止しているのはまずいという考え方である。」このところは、多分私の方がまだいろいろ見えているものがあるかと思う。少なくとも売春防止法などで禁止したらどうこうなるというものではないというのでは一致しているが、そもそもの家庭や行政で保護しきれない代物であるというのは、継続支援B型で勤めている嫁から聞く話ではそうである。この領域で働く人は給料は出るのだが、ボランティア部分があまりにも大きい。名前のつく支援にはお金を出せるが、一定時間、一定の持ち点を消費すると困窮した人たちでもサービスを受けられないとかがある。特定の時間に対して現場で融通を利かせたりするとチクられて報酬停止とかになるので規約通りにしかできないし、明らかに無報酬の時間が発生する。ちょっと話がズレるが、例えば、施設に来ていた人が、どうも関東の方から男に誘拐されるような形で大阪に来て男もその人の障害年金の金を懐に入れてるらしく、どうも怪しいというので関係各所に話をして、シェルターにまで連れていったという場合、ここの仲立ち等は無給である。施設利用者が亡くなり(元々糖尿病)、その葬式に至るまでの処理をその母親の代わりにやるとかも、無給である。ネグレクトされた児童が児童相談所につながれず障害を抱えたまま大人になり、お金管理出来ないので代わりにお金を管理していたりするのも無給(成人後見人制度とかはあるが、当然ながら親がいる場合には親がと言われたり金が出ない)。知恵遅れの子が売春でお金ざぼざぼ使いはするがなんとか生活できるという水準でいる時に、就労支援B型のお賃金では月数千円にしかならないのを、「こっちが正しい道」と引きずるのも難しい(そもそも福祉介護は利用者が「望まない」といけないのもあるが)。
無論、そういう人らだけでは当然なく、もちろん元々お金持ってたのに惰性だとかってのも感じるものはあるのだろうが、「天井のしみを一時間ほど数えてれば一万円とかになる」であれば、そんな金欲しいと思うのは男性女性関係なしにあるだろう。スマホ止められた、電気止められた、貯蓄の余裕がない、そんな家庭は五万とある(独身ならさらにそうだろう)。精神衛生上よろしくないというのであれば、そもそも貧困というか社会の下層に住む事自体があまり精神衛生上よろしくなく、お金に困ったりするのが精神衛生上よろしくない。


よく、こういう風俗とかを社会の底辺というような形でいう人もいるのだが、我々の社会は有限であり境界があるのだという事、その境界はおそらく社会的な道徳の善悪の境界線でもあり、これを悪というか善というか、それを決めているのは実は社会道徳であり法律であるというだけ、と思っている。
私は老荘思想かぶれでもあるので、これはそういう意味での極論だと理解してほしいが、だからこういう「道徳」こそが「悪」を生んでいる。社会が「道徳」を必要とする時、「何かを善、何かを悪」と定義づけ、「道徳」が「人を殴る棒」として使われる。悪魔の辞典のような定義だが、しかし、大きな話でいうとロシア・ウクライナの戦争とか、民衆の生存よりも道徳が重い・正義が重いという事になっている。
まあもうちょっとメタな視点もあり、結局なところ人はそういう「道徳」を結果的に求めるものだし、よう分からんネットバトルでも当人にとっては真剣そのものであるから、欲望からの解脱でもせんと多分解決はせんだろうなとは思っている。そんなのが全人類可能かというと、まあそれって人類が滅んで涅槃とかにならんと無理なもんは無理だろう。


元エントリ主とは違うな、考え方、という事で結論。