科学っぽい何かに振り回される大勢。

今は科学的な情報とやらに振り回される時代に入っている。
元々、「ぱっと見」分かんないことから、「ある種の増幅」を行ったりするのが疫学や測定装置なのだから、それを「そのまま」日常に落とし込むことなんて出来ない。屋台のくじ引きに当たりがあるかないかなんてことは、ちょっと調べた程度の結果では分からない。宝くじの当選者が「いる」と思うのは、当たった人を知っているのでない限り、単なる「信用」でしかない(まあその信用を裏切る必要もないくらいに宝くじの場合には配当率が低いわけであるが)。


素朴な感覚・感情なんかをWebで流していると、「周りもそんな感覚・感情で動く」と思いがちだけど、陰謀論とかそんなのじゃない、もっと複雑なものが絡みあってることを頭の中で注意しておかないと、人々の動きを理解することは出来ない。
原発のどことなく郷愁さえ覚える謀のお話も、既に「反原発そのものが政治化された動きであった」ことを理解していないといけない。チェルノブイリごろはまだ素朴な親切な学者が存在した、なんてーのは有り得ない。既にその頃は高度に政治化した「科学っぽい運動」が蔓延っていた。多分に二周目三周目の世界なんだよこれ。科学がプロパガンダに汚染されてるは、第一次世界大戦ぐらいからもうそうなんだってばさ。


まず、大前提。
科学、というので良く出てくる「データ」って奴は、君らが「分かる」頃には、「抽象化」「増幅」なんかされて「提示」されていることをまず理解しなけりゃいけない。極端にいうと「デフォルメされている」わけさ。
科学、って範疇に入れるなら、その「デフォルメのルール」ってのが「非人間的」お作法によって作られているから、「誰がやっても同じ」結果になる、というから我々は使えるんだけど、我々の感覚への翻訳ってのは、極めて不親切に作られている。これは「客観性」を考えれば考えるほど、個々の感覚からはずれてくるもんなんだ。
けど、実際には、「我々の個々の感覚」ってのも、実は別の「外部からの『客観性』導入」って所で作られている。一見科学的だが違うもの、しかし我々の「日常感覚」に近しいところから持ってこられた「科学的感覚」ってのが、これ実に厄介なものなのよね。


「微量でも何かしら人命に関係がある」ってのは、わりとちゃんとした「科学的感覚」ではあるのよね。但し、「微量」って言っても、殆どの人は「ミリグラムとピコグラムの絶望的な差」とかは認識できないのよ。その辺り抽象過ぎて、「重みを感じることが出来ない重さ」って所では一緒なのよ。まあ、確率とかでも、「宝くじと万馬券、どっちが当たりやすいか」なんてのは、実際に馬券やってる人じゃないとナカナカピンとこないんじゃないかな。万馬券結構出るんだけどさ。
元々、微量をセンシティブに捉える「専門的な科学」ってのがあって、それに乗っかって「日常感覚」ってのが出来上がってる。これ、実際にその微量を扱ってみないとどんだけ「微量」なのか分からないだろうね。
その辺り、実は、「環境プロパガンダな人達が言ったことの誤り」ってのは、その後結構訂正されているんだけど、その辺りを「舶来もの」としてきれいに「裏を見せずに出してくる」ってのが、今の日本のNPOなんかがやっているやり方。まあ、これはNPOが悪いとかじゃなくて、日本人にとっての「科学のようなものの見方としてそれがとても効果的であると脳に刷り込まれちゃってる」状態なんで、誰が悪いとかは言えないけどね。


まあ、指摘するのももう面倒臭いというか、「わけがわからないねえ」って言って気楽に暮らしている方が良いのでこの辺にしとくけど、
君たちは実に人間臭いよね。