小児性愛とか。

小児性愛など反社会的とされる願望はどこまで「認められる」べきか? - Togetter」を見て。

同性愛とペドフィリアを同列に語り、「どちらも性指向(嗜好か?)なのだから、同性愛が認められるのなら、当然ペドフィリアも認められるはずだ」と主張する人間がいる。同性愛は、お互いがお互いを選び選ばれる《性愛》だが、ペドフィリアは、大人が一方的に子供身体を「使用」する《性的虐待》だ。

小児性愛など反社会的とされる願望はどこまで「認められる」べきか? - Togetter

ペドフィリアが絡むのは、少女への性犯罪の、ほんの一握り(割合としてはゆきずりの犯行とかは相当低い)にしか共通しない問題になります。確かにこの層には化学的去勢とかも有効だろうとは思うけどまだ人体実験中という感じですね。今のところ、性犯罪の動機とかを見て処方されてんでしょうかね。

お話としては、性癖での内面の葛藤とか出て来るそんな話はとても興味深く読まれるだろうけども(みんな性的なお話にするの大好きなんだよ)、何のことはない、「単に力の弱い或いは訴える力のない女」という選択だったりしますね。圧倒的にそんな感じでされる暴行事件は多いです。喧嘩になってお互い怪我した、ってのは暴行事件になんないんですよね。
ドラム缶殺人事件でしたっけ。その手の話とかなり近いと思いますね。

性と暴力は、結構近いものと思います。別に、セックスの中に生と死があるとかって話をしたい訳ではなく、本質的に、「人間は快楽を本当の意味で共有してない」んですよね。自然、「どっちかの快楽の都合に合わせる」(女性だと演技だったり男性だと円周率数えたりですね)訳です。強制とか被強制とかの匂いがプンプンします。
パラフィリアではしばしば暴力的な関係が普通より高確率で発生したりします(監禁とか)。けどもやっぱり、暴力的なお話ってのは「同性が好きか異性が好きか」というのとは違うと考えられる訳です。
同性愛からその「暴力行為を伴うそれ」の話が切り離されたように、小児性愛も切り離した方が話も見えやすかろうとは思うのですよね。

ただ、まあ、だからと言って「ようじょだいすき」とかってTwitterで喋るのはちょっと違うとは思います。
TPOをわきまえろ、というのではなくて、「普通に、性暴力の被害者が生きていて暮らしているのだから、振りかざした拳に見えないような配慮はしておくべき」かな、と。みんな、元気になっているわけではないので。